ラグジュアリービジネスの現場は、美しい洋服に囲まれた優雅な世界などではありません。そこにあるのは、ブランド側とバイヤーによる、数字とプライドをかけた熾烈な「政治学」と「心理戦」です。特にイタリア・ミラノでの秋冬オーダー会は、年間売り上げを左右する最も緊張感のある場所です。
バイヤーの仕事は、お金を出せば好きな商品を好きなだけ買えるわけではありません。特に人気の高いアイコン商品や、数量限定のカプセルコレクションには、ブランド側が設定した「アロケーション(割り当て枠)」が存在します。ブランド側は、自分たちの世界観を正しく理解し、ブランドの格を落とさないショップにしか商品を出したくないのです。
ショールームの商談テーブルについた瞬間から、心理戦は始まります。ブランドの営業担当者は、こちらの過去の販売実績(セルアウトレート)や、店舗でのディスプレイ方法を冷徹な目で見つめています。ここで私たちが「このバッグを50個ください」と言っても、「あなた方の店には20個しか出せません」と平然と断られるのが日常茶飯事です。
そこで私たちは、単に欲しい商品だけを要求するのではなく、ブランド側が「今シーズン一番売りたいけれど、売るのが難しい難解なルック」をあえて買い付けるというカードを切ります。ランウェイの象徴的なドレスや、尖ったデザインのコートを買い付けることで、「私たちはあなた方のクリエイティビティを100%支持している」という姿勢を示すのです。これによって信頼関係を築き、結果的に利益率の高い定番バッグの枠を勝ち取る。これが「バイイングの政治学」です。
華やかなファッションの裏側で繰り広げられる、冷徹なデータ分析と、泥臭い人間関係の構築。ブランドをリスペクトしつつも、決して相手のペースに飲まれない強靭な交渉力。この緊迫感の中で予算を使い切ったときの疲労感と達成感こそが、バイヤーという職業の真の醍醐味なのです。